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津軽の旅

岩木山山頂 八甲田連峰 白神岳 不老不死温泉
   津軽三味線は二つの流派があって、皮を太鼓のように強く叩いて打ち鳴らす「叩き奏法」と、本来の弦楽器として叩かずに糸の音色にこだわる「弾き(音澄み)奏法」があります。 数では圧倒的に叩きの手が多いのでそちらが代名詞になっているのですが、独奏楽器として津軽三味線を全国に広めた故初代高橋竹山さんの弾きは別格の人気があります。

もともと津軽三味線は目の不自由な方の生きる為の芸として発展してきました。 そこには邦楽三味線の世界と違って慣習にこだわらない「自分の三味線を弾け」という個人のパフォーマンスでした。 けれどその独創性はしっかりした基本ありきの個性です。 その基本とは津軽民謡や、地元で伝わる唄などの「唄づけ」と呼ばれる伴奏です。 古典をしっかり身につけて、そこから自分の味を出していき、ゆくゆくは自分の音を創っていきなさいという教えですが、 僕にとっては基本を身につけることが永遠の目標です。

 「津軽三味線の誕生」を読んでから著者の大條和雄氏(津軽三味線研究家)の家を訪ねて行きました。

お宅は奥さんと食堂を営まれており、伺った時には店の中で3〜4人の生徒さんにレッスンされていました。椅子に座って円座になり譜面なしで一緒に弾きながら稽古をつけておられました。終了後に本の話や、昔からの地元のコンクールの大会のあり方に異を唱えて新たな組織の大会運営をされていました。
直に会ってによると津軽三味線の始祖は、「仁太坊」というボサマと呼ばれる盲目の三味線芸人でした。 目の不自由な人が生きるためには男はあんま(マッサージ)か、三味線弾きになることくらいしかない時代。 祭りで賑わう神社や、寺の境内で三味線を弾いて銭を得る、 または民家の門前で弾いてお金や米などの施しを受ける・・・そこには家の中にいる人の耳を傾かせ、感動させる音が鳴らないと戸を開けてくれないという厳しい旅生活。 仁太坊は他の三味線弾きにはない、驚かせるほどの大きな音を出す「叩き」の手を編み出したのが始まりと唱えています。 その後仁太坊の影響を受けて多くの芸人たちが切磋琢磨して叩きの音を確立していき、 一方それに対抗するべく叩かずに流れるような速いリズムで澄み切った音を奏でる「音澄み」という弾きの手も確立されていきました。 その弾きの手を継承する初代高橋竹山氏の三味線が初めてレコード化され、コンサート活動とあいまって津軽三味線が全国に知れわたるようになりました。


しかしそれは伝統ある家元制度で受け継がれてきた邦楽三味線の世界からは邪道として評されるものでした。 それでも大衆には衝撃的な驚きと感動を与え、 多くの支持を得て「津軽三味線」が別モノの音楽ジャンルとして認められていきました。生きる手段としての数多くの芸人たちが必死に三味線の腕を競いあって、創造していった結果の文化が津軽三味線だったようです。
 


太棹の理由

 東北地方は民謡王国といわれるほど唄や踊り盛んで、昔から秋祭り時期になると各神社の境内で露店や見世物、民謡の小屋がけ興行で賑わい、三味線弾きを含め芸人には稼ぎ所といわれていた。
当時はマイクなどの音響装置はないものだから大きい音を出さないとまわりに聞こえない。そのため浄瑠璃の太棹三味線をもとに造り変えられたのが津軽三味線。太棹は竿が太いので、糸も太いのが張れる。糸が太いと音も野太く、よく響く。さらにより反響音を出す為には胴も大きくして、皮は猫より強い犬の革になった。木の材質もいいモノは紅木(こうき)という密度の濃い変形しにくい比重の重いのものを使う。他の長唄や民謡三味線と比べてかなり重いので竿を立てて構えるスタイルになった。 


津軽への旅
 平成13年8月、「帰ってこいよ」でおなじみの津軽を代表する山、岩木山に登った帰りに立ち寄った居酒屋「山唄」。ここは故山田千里さんがやられている三味線ライブのある店だった。料理や酒も安いくらいの値段でだけどちょっと変わっていた。 席に案内してくれる人、オーダーを聞きに来る人、それを運んでくれる人、皆違う人だった。店の大きさのわりにやたらスタッフが多いなあ?と、そのうえスタッフの年齢は若いのから中高年まで、服装もTシャツからスーツ、着物姿まで様々。ちょっと変わってるなあと思いつつ生ビールを飲む。岩木山行の後のビールは最高。
PM7時半になるとそれまであちこちにいたスタッフが全員いなくなった。何故?と思いつつ全員が三味線を抱えて現れて前の小さな舞台にあがり、一斉に弾き始めた。30分強の演奏や唄に目がクギづけになった。「凄い・・・・」ここには津軽三味線全国大会の優勝者が何人もいた。全員の後はソロや2、3人で、また津軽民謡も入ったり。スーツのおっちゃんや、着物のおばちゃんは地元の歌手だった。
ここのスタッフは皆、三味線を習うために働いていたのだった。服装の違いなどの疑問も納得できた。三味線ライブは2回あったがつい最後まで見てしまった。とにかくカルチャーショック。撥さばきと音の迫力がまるで違う。それまであった自信は微塵に散った。そしてあくる日は義姉の母の伝手で山上進さんというプロの三味線弾きの手ほどきをうけることが出来た。


レッスン
 「山上進さん」といえば津軽でも数少ないプロの奏者。三味線弾きは山ほどいるがその芸で身をたてる人は片手に足りるくらいという。地元では有名な人で後援会がありファンも多い。そんな人が見知らぬ兄の狭い家に来てくれて1時間余りも個人レッスンしてくれた。
その中心は「撥づけ」・・・ばちづけというのは津軽三味線特有の撥(ばち)を打つ奏法で最も大事な基本中の基本。その方法は「前バチ、後ろバチ」といって撥で糸を打つ場所が竿に近い前と駒に近い後ろを一定のリズムで打つやりかた。後ろで力強く弾き、前は小さく音を消すようにとめる。このメリハリが重要で「トントン・ツ!、トントン・ツ!・・」と何度も何度も叩き込むように指導してくれた。
たったひとりの1回限りの初対面の自分のためにひたすらに関わってくれる姿に感動した。物事を人に伝えるにはこうするんだ!と目から鱗だった。翌年も訪ねた時は奥さんが亡くなられた数日後だったのにもかかわらず、約束してたからと時間をさいて来てくれた。三味線だけでなくプロとしての姿勢を見せて頂いた。後援会があるというのがよくわかった。
 
それからの自分は民謡の先生のもとを離れて山上さんの教えを思い出しながら撥づけの練習に励み翌年も青森へ趣き指導を受けた。だいぶその形が身についてきて曲練習に移行するようになった。けれどひとりは刺激や、張り合いがなく一時は4時間ほどの練習量も減ってきて、このままでは駄目と思い津軽三味線をやる会をつくろうと決めた。


初代高橋竹山さん
 津軽三味線は最近は吉田兄弟、上妻宏光、木下伸一さんら若手演奏家がプロデビューしてテレビや、CMに出演するほど脚光を浴びてきた。津軽の全国大会で入賞者は10代の若手が目立って多くなった。若者へのブームを呼ぶきっかけになった先人、故高橋竹山さんが津軽三味線という独奏の分野で初めてレコードにだしたのは今から30年前のこと。 

津軽=高橋竹山というほど全国にその名を馳せたが津軽ではダイナミックな「タタキ」と言われる撥で糸を叩きつけるように打つ奏法が主流。喜田林松栄、福士政勝らの流れをくむ叩き三味線の手。高橋竹山は「音澄み」といって力強さより澄み切った音色を追求する梅田豊月、藤沢坊らの先人の流れをくむ弾き三味線の手。竹山さんは個人の「門付け芸」としての三味線。 門付け(かどづけ)とは目の不自由な男性が生活の糧を得るため、祭りの境内や、民家の門前で三味線を弾き、良ければ家主より米やお金を頂いて旅して歩く業のこと。(今ではもう存在していないが)。 だから竹山さんの音はダイナミックな派手さよりは、歩いた土地の臭いや、生きる辛さ、哀れさ、冬の厳しい海や山の風土の景色が描かれて哀愁を感じさせてくれる。旅先で偶然出会った当時の一流民謡歌手の成田雲竹に見出されて一緒について活動するようになる。

それが某レコード会社のプロデューサーの目にとまり、初めての三味線の独奏曲をレコード化された。しかし時代は三味線の演奏だけをレコードにしても売れる時代ではなかった。時がたちその良さが認められ高橋竹山=津軽三味線が全国に知れわたるようになった。ビデオで見た竹山さんのコンサートでは演奏はもちろん合間の喋りに人を引きこむ温かみがあった。



自然の中へ
 青森は岩木山、八甲田山、白神岳といい山がある。岩木山麓のブナ林の樹海には驚いた。また幹も葉っぱも大きい。高さは徳島の剣山よりだいぶ低いが山は深いという感じだった。あちこちにクマの注意の看板も。八甲田山は八つの甲(峰)と八つの田(湿原)が連なっている連峰で避難小屋が数少ないので夏でもコースをはずさないように気をつけねば厄介なことにもなる。山歩きや温泉、海の幸の魚介類が豊富で美味しくてすっかり気に入ってしまい翌年も行った。でも冬を知らないと津軽はわからないというので次は冬にと思っている。

昨年、高越山で弾いてみて気がついた。ガンガン響く室内と比べて山の中だと音が全く伸びずに消えていく。津軽三味線は祭りの境内や、家の門前で弾かれていたので外でよく鳴らないと太棹の特徴がでない。もっと外で弾くことが大切だと思う。