| きっかけ | 基本練習 | 教室案内 | 活動歴・失敗談・津軽の旅 | ||
| ~教室・講座案内~ | ||||||||||||||||||
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| 平成7年 4月 | 徳島市阿波踊り三味線教室受講 | |||
| 9年 4月 | 徳島民謡会 三味線部入会 | |||
| 10、11年8月 | 青森で山上進氏に撥づけ指南を受ける | |||
| 12年 4月 | 津軽風三味線教室「つがるん」を立ち上げる | |||
| 10月 | 徳島新聞カルチャーセンター「津軽三味線」講座講師になる。 | |||
| 15年 4月 | 「つがるん」佐古会を立ち上げる。 | |||
| 16年 5月 | 阿波踊り天水連に入連 | |||
| 16年12月 | 津軽三味線大阪大会個人Bに出場 | |||
| 17年 8月 | 阿波踊り選抜舞台・天水連で「六段」「津軽甚句」伴奏 | |||
| 11月 | 徳島市コミセンまつりグループ演奏5名 | |||
| 2月 | 四国放送ラジオ「エスニックチャンプル」に出演 | |||
| 18年 6月 | つがるん立江教室を発足。 | |||
| 18年 9月 | 県青少年センター三味線講座講師・全5回 | |||
| 19年 8月 | 知的障害者施設野菊の里・特別養護老人ホーム蓬莱荘で演奏4名 | |||
| 19年12月 | 津軽三味線大阪大会 団体Bの部出場10名 | |||
| 20年 9月 | 鴨島病院まつりで演奏7名 | |||
| 11月 | 養護老人ホーム仁寿園で演奏11名 / 名西郡農協まつりで演奏9名 | |||
| 12月 | 津軽三味線大阪大会・団体Bに出場・10名 | |||
| 21年 3月 | つがるん阿南会発足・ひまわり会館 | |||
| 4・8月 | 石井町ウォーキング大会にて演奏10 名・石井町夏祭り演奏11名 | |||
| 9月 | コープフェスティバル演奏12名 / 阿南コスモホール音楽祭12名 | |||
| 11月 | 徳島コミセンまつり演奏11名 / 津軽三味線全国大会大阪・団体B出場12名 | |||
| 22年 2月 | 老健施設・慈遊館にてグループ演奏8名 | |||
| 3・4月 | 立江老人会演奏9名・神山町さくらまつり / 石井里山ウォーク演奏8名 | |||
| 10・ 11月 | 小松島ひのみね総合療育センター7名 ・山川町老人ホーム芳越荘演奏8名 | |||
| 23年 4月 | 石井里山ウォーク / 神山さくらまつり演奏8名・フジグラン北島で演奏5名 | |||
| 24年 1月 | 徳島新聞主催グランビアホテル 演奏8名 | |||
| 3・4月 | 天理教助任分教会にて演奏9名 石井里山ウォーク・神山さくら祭り演奏10名 | |||
| 11月 | 阿南琴江荘デイサービス演奏6名 | |||
| 26年 3月 | 徳島 デイサービス優樹 6名 | |||
| 27年12月 | 徳島 老人施設クレア 5名 | |||
| 28年4・11月 | 阿南 ロイヤルデイサービス演奏4名 阿南 平島小・学童まつり演奏 8名 | |||
| 29年 4月 | 神山 明王院さくらまつり 8名 / てくてく春祭り演奏8名 | |||
| 11月 | 神山 てくてく3名 / 徳島八木病院演奏5名 | |||
| 11月 | 籐秋会姫路支部入会 | |||
| 30年1月~ | 姫路お稽古出張 | |||
| 3・4月 | 徳島新聞カルチャーフェス演奏6名・神山 明王院さくらまつり演奏5名 | |||
| 6月 | 日本郷土民謡協会四国大会演奏3名 / 姫路出張 | |||
| 7、10月 | 姫路出張 ・つがるん佐古閉会 | |||
| 令和 3年 | つがるん 阿南会再開 | |||
| 4、8,9、 11、12月 |
姫路出張練習 | |||
| 4年1月 | 徳島新春寄席5名 姫路出張 | |||
| 6年6月 | 藤秋会名取拝名 |

| 練習の失敗 平成16年11月、初めての大会エントリーして練習に力が入るようになった。PM8時すぎ鮎喰川河川敷公園で車の中で叩き撥の練習をしていた。その時右手の甲に強い痛みがあり、翌日整形外科に通院すると腱鞘炎との診断だった。けれど練習は休めないので気にせずにやっていたら・・・1週間後、急に親指の第1関節がくの字に曲がったまま伸びなくなった。診断で右手親指の腱断裂。唖然としたが手術は急を要さないとの事なので大会には出る事にして手術は大会後にすることになった。 腱が切れた原因は三味線のやりすぎ。糸を打つ撥(ばち)の持ち方は手首を90°に曲げるのが基本。その手首を横に回転させて撥を振る。特に津軽は太い一の糸を強く叩くがその強さは他の三味線の3倍くらいの打力が親指に反動する。撥を振ることでの腱が曲げた手首の骨に当たり、こすれて磨耗して痩せていき、遂にはプチンと切れてしまったという結果。練習中に手首に痛みを感じた時はその前兆だった。三味線だけにバチがあたったのかも(苦笑) 大阪大会会場の朝日生命ホールの入り口ロビーには座り込んで練習する人で足の踏み場もないほどだった。北海道から鹿児島まで全国から腕自慢が集まり僕は一般男子の132番で最後だった。予想以上のハイレベルな大会で場違いなエントリーだった。子供や女子の部でも皆かなりの腕前で驚いた。 曲も皆オリジナルで高度なテクニックに圧倒された。ましてや最後なので会場は演奏を終えた強者たちで立ち見の満席・・マジに棄権しようかと思ったが、ここで逃げたらいかん。たとえ笑われても出る事で得られるものがあると思い直して舞台にあがる。緊張してミスも多かったがどうにか最後までは弾けた 手術 大会終わって日赤病院で手術した。手術は簡単でその日のうちに帰れるものだったが。術後の経過が悪く、繋いだ腱が少し伸びてしまい親指は完全には戻らなかった。けれど生活にはさほど支障もないので仕方なく再手術は諦めた。それから2年が経過したが右手の痛みや腫れが出るため強い叩き練習は出来なくなった。 |
| 怪我しないために ➀練習のやりすぎは要注意。手が痛くなる前にやめる。 ➁強い叩きの練習は短時間にする。 ③練習前後に手首のストレッチを行なう。以上くれぐれもお気をつけて。 |
| 津軽の旅 |
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| 岩木山山頂 | 八甲田連峰 | 白神岳 | 不老不死温泉 |
| 津軽三味線は二つの流派があって、皮を太鼓のように強く叩いて打ち鳴らす「叩き奏法」と、本来の弦楽器として叩かずに糸の音色にこだわる「弾き(音澄み)奏法」があります。 数では圧倒的に叩きの手が多いのでそちらが代名詞になっているのですが、独奏楽器として津軽三味線を全国に広めた故初代高橋竹山さんの弾きは別格の人気があります。 もともと津軽三味線は目の不自由な方の生きる為の芸として発展してきました。 そこには邦楽三味線の世界と違って慣習にこだわらない「自分の三味線を弾け」という個人のパフォーマンスでした。 けれどその独創性はしっかりした基本ありきの個性です。 その基本とは津軽民謡や、地元で伝わる唄などの「唄づけ」と呼ばれる伴奏です。 古典をしっかり身につけて、そこから自分の味を出していき、ゆくゆくは自分の音を創っていきなさいという教えですが、 僕にとっては基本を身につけることが永遠の目標です。 「津軽三味線の誕生」を読んでから著者の大條和雄氏(津軽三味線研究家)の家を訪ねて行きました。 お宅は奥さんと食堂を営まれており、伺った時には店の中で3~4人の生徒さんにレッスンされていました。椅子に座って円座になり譜面なしで一緒に弾きながら稽古をつけておられました。終了後に本の話や、昔からの地元のコンクールの大会のあり方に異を唱えて新たな組織の大会運営をされていました。 直に会ってによると津軽三味線の始祖は、「仁太坊」というボサマと呼ばれる盲目の三味線芸人でした。 目の不自由な人が生きるためには男はあんま(マッサージ)か、三味線弾きになることくらいしかない時代。 祭りで賑わう神社や、寺の境内で三味線を弾いて銭を得る、 または民家の門前で弾いてお金や米などの施しを受ける・・・そこには家の中にいる人の耳を傾かせ、感動させる音が鳴らないと戸を開けてくれないという厳しい旅生活。 仁太坊は他の三味線弾きにはない、驚かせるほどの大きな音を出す「叩き」の手を編み出したのが始まりと唱えています。 その後仁太坊の影響を受けて多くの芸人たちが切磋琢磨して叩きの音を確立していき、 一方それに対抗するべく叩かずに流れるような速いリズムで澄み切った音を奏でる「音澄み」という弾きの手も確立されていきました。 その弾きの手を継承する初代高橋竹山氏の三味線が初めてレコード化され、コンサート活動とあいまって津軽三味線が全国に知れわたるようになりました。 しかしそれは伝統ある家元制度で受け継がれてきた邦楽三味線の世界からは邪道として評されるものでした。 それでも大衆には衝撃的な驚きと感動を与え、 多くの支持を得て「津軽三味線」が別モノの音楽ジャンルとして認められていきました。生きる手段としての数多くの芸人たちが必死に三味線の腕を競いあって、創造していった結果の文化が津軽三味線だったようです。 |
太棹の理由 東北地方は民謡王国といわれるほど唄や踊り盛んで、昔から秋祭り時期になると各神社の境内で露店や見世物、民謡の小屋がけ興行で賑わい、三味線弾きを含め芸人には稼ぎ所といわれていた。 当時はマイクなどの音響装置はないものだから大きい音を出さないとまわりに聞こえない。そのため浄瑠璃の太棹三味線をもとに造り変えられたのが津軽三味線。太棹は竿が太いので、糸も太いのが張れる。糸が太いと音も野太く、よく響く。さらにより反響音を出す為には胴も大きくして、皮は猫より強い犬の革になった。木の材質もいいモノは紅木(こうき)という密度の濃い変形しにくい比重の重いのものを使う。他の長唄や民謡三味線と比べてかなり重いので竿を立てて構えるスタイルになった。 津軽への旅 平成13年8月、「帰ってこいよ」でおなじみの津軽を代表する山、岩木山に登った帰りに立ち寄った居酒屋「山唄」。ここは故山田千里さんがやられている三味線ライブのある店だった。料理や酒も安いくらいの値段でだけどちょっと変わっていた。 席に案内してくれる人、オーダーを聞きに来る人、それを運んでくれる人、皆違う人だった。店の大きさのわりにやたらスタッフが多いなあ?と、そのうえスタッフの年齢は若いのから中高年まで、服装もTシャツからスーツ、着物姿まで様々。ちょっと変わってるなあと思いつつ生ビールを飲む。岩木山行の後のビールは最高。 PM7時半になるとそれまであちこちにいたスタッフが全員いなくなった。何故?と思いつつ全員が三味線を抱えて現れて前の小さな舞台にあがり、一斉に弾き始めた。30分強の演奏や唄に目がクギづけになった。「凄い・・・・」ここには津軽三味線全国大会の優勝者が何人もいた。全員の後はソロや2、3人で、また津軽民謡も入ったり。スーツのおっちゃんや、着物のおばちゃんは地元の歌手だった。 ここのスタッフは皆、三味線を習うために働いていたのだった。服装の違いなどの疑問も納得できた。三味線ライブは2回あったがつい最後まで見てしまった。とにかくカルチャーショック。撥さばきと音の迫力がまるで違う。それまであった自信は微塵に散った。そしてあくる日は義姉の母の伝手で山上進さんというプロの三味線弾きの手ほどきをうけることが出来た。 レッスン 「山上進さん」といえば津軽でも数少ないプロの奏者。三味線弾きは山ほどいるがその芸で身をたてる人は片手に足りるくらいという。地元では有名な人で後援会がありファンも多い。そんな人が見知らぬ兄の狭い家に来てくれて1時間余りも個人レッスンしてくれた。 その中心は「撥づけ」・・・ばちづけというのは津軽三味線特有の撥(ばち)を打つ奏法で最も大事な基本中の基本。その方法は「前バチ、後ろバチ」といって撥で糸を打つ場所が竿に近い前と駒に近い後ろを一定のリズムで打つやりかた。後ろで力強く弾き、前は小さく音を消すようにとめる。このメリハリが重要で「トントン・ツ!、トントン・ツ!・・」と何度も何度も叩き込むように指導してくれた。 たったひとりの1回限りの初対面の自分のためにひたすらに関わってくれる姿に感動した。物事を人に伝えるにはこうするんだ!と目から鱗だった。翌年も訪ねた時は奥さんが亡くなられた数日後だったのにもかかわらず、約束してたからと時間をさいて来てくれた。三味線だけでなくプロとしての姿勢を見せて頂いた。後援会があるというのがよくわかった。 それからの自分は民謡の先生のもとを離れて山上さんの教えを思い出しながら撥づけの練習に励み翌年も青森へ趣き指導を受けた。だいぶその形が身についてきて曲練習に移行するようになった。けれどひとりは刺激や、張り合いがなく一時は4時間ほどの練習量も減ってきて、このままでは駄目と思い津軽三味線をやる会をつくろうと決めた。 初代高橋竹山さん 津軽三味線は最近は吉田兄弟、上妻宏光、木下伸一さんら若手演奏家がプロデビューしてテレビや、CMに出演するほど脚光を浴びてきた。津軽の全国大会で入賞者は10代の若手が目立って多くなった。若者へのブームを呼ぶきっかけになった先人、故高橋竹山さんが津軽三味線という独奏の分野で初めてレコードにだしたのは今から30年前のこと。 津軽=高橋竹山というほど全国にその名を馳せたが津軽ではダイナミックな「タタキ」と言われる撥で糸を叩きつけるように打つ奏法が主流。喜田林松栄、福士政勝らの流れをくむ叩き三味線の手。高橋竹山は「音澄み」といって力強さより澄み切った音色を追求する梅田豊月、藤沢坊らの先人の流れをくむ弾き三味線の手。竹山さんは個人の「門付け芸」としての三味線。 門付け(かどづけ)とは目の不自由な男性が生活の糧を得るため、祭りの境内や、民家の門前で三味線を弾き、良ければ家主より米やお金を頂いて旅して歩く業のこと。(今ではもう存在していないが)。 だから竹山さんの音はダイナミックな派手さよりは、歩いた土地の臭いや、生きる辛さ、哀れさ、冬の厳しい海や山の風土の景色が描かれて哀愁を感じさせてくれる。旅先で偶然出会った当時の一流民謡歌手の成田雲竹に見出されて一緒について活動するようになる。 それが某レコード会社のプロデューサーの目にとまり、初めての三味線の独奏曲をレコード化された。しかし時代は三味線の演奏だけをレコードにしても売れる時代ではなかった。時がたちその良さが認められ高橋竹山=津軽三味線が全国に知れわたるようになった。ビデオで見た竹山さんのコンサートでは演奏はもちろん合間の喋りに人を引きこむ温かみがあった。 |
| 自然の中へ 青森は岩木山、八甲田山、白神岳といい山がある。岩木山麓のブナ林の樹海には驚いた。また幹も葉っぱも大きい。高さは徳島の剣山よりだいぶ低いが山は深いという感じだった。あちこちにクマの注意の看板も。八甲田山は八つの甲(峰)と八つの田(湿原)が連なっている連峰で避難小屋が数少ないので夏でもコースをはずさないように気をつけねば厄介なことにもなる。山歩きや温泉、海の幸の魚介類が豊富で美味しくてすっかり気に入ってしまい翌年も行った。でも冬を知らないと津軽はわからないというので次は冬にと思っている。 昨年、高越山で弾いてみて気がついた。ガンガン響く室内と比べて山の中だと音が全く伸びずに消えていく。津軽三味線は祭りの境内や、家の門前で弾かれていたので外でよく鳴らないと太棹の特徴がでない。もっと外で弾くことが大切だと思う。 |